わっさわさ

セカンドシーズン

せこいあいつは変わらない(mm)

新入社員時代が懐かしい。

自分の必死さも初々しさも、今じゃ見られない景気の良さも、残業を何時間しても社会的にも許されていた時代すらも。

よく働いたし、よく遊んだし、よく飲んだし、当時の忙しさすらも愛おしく思える。

今は残業も事前申告しても月40時間程度までしか許されず、終わらない仕事は家に持って帰らざるを得ないんだけど、pcにログインすると本社に通知が行くらしく社用のpcは使えない、しかし顧客から催促は来る、ノルマも達成しないといけない、だから仕事はしないといけないんだけど出来ないからプライベートのpcでなんとか企画書を作る、みたいな訳の分からない状態になっていることを前職の同僚から聞いた。

 

まあ、私も新卒当時の会社からは早々に転職してしまい、同期や同僚も頑張ってはいたけれど、一気にこのコロナの波で転職しちゃった感じ。

もう知っている人も数えるほどになってしまった。就職した当時はどちらか言うと花形な業界だったのに、人生の先はわかったもんじゃない。

 

新卒だった当時、営業職だった私は色々理由があり私は精力的に仕事をしていて、なおかつ尖りまくっていた。

尖っていたのもあったが、成果も伴っていたのでかなり嫌な奴だったと思う。

余談なんだけど転職後も営業職をしており、その頃も尖っていて、しかし営業が水に合っていて私はめちゃくちゃ成績が良かった。大体毎月表彰されていて、会社からすると貴重な人材だったと思う。転職先の会社のメンバー同士はなかなか仲が良くて、私はそのノリについていけなかったんだけど、大体メンバーの誕生日がくると寄せ書きとか用意されてみんなで買ったプレゼントみたいなのも渡されていた。

でも、いざ私の誕生日が来た時、誰からも寄せ書きもプレゼントもなくて笑ってしまった。私めっちゃ嫌われてるやん!って思った。

偶然同じ誕生日だった後輩だけ祝われているのを見て、面倒くさいなと感じたのを覚えている。

でも会社は仲良しクラブじゃなくて、稼ぎに来てるところなのでまあいいかと思ってやり過ごした。多分そういう態度が余計に反感を買っていたんだと思う。

当時マネージャーをしていた人は、私より営業成績は悪かったけど、みんなをまとめる力はずば抜けていた。人をやる気にさせるのが上手な人ってやっぱりいるんだなー、私にはそういうのができないんだなあ、とぼんやり考えながら仕事していたのを覚えている。例に漏れず私もそのマネージャー(女性)のファンで、この人の言うことなら聞きたいなと思っていたので、彼女のマネジメント能力を羨ましく感じていた。

 

話は戻るが、新卒で入社した会社でも営業をしていた私。その会社は個人ノルマ達成が何より重要事項だったので隣の席の先輩も後輩もライバルだった。ただ、社員仲は悪いわけではなかった。

当時の私の隣の席は指導社員の先輩で、右も左も分からない私はこの人のことを段々と好きになっていった。でもそれは、教え方がうまいとか、そういうのじゃなくて、ガタイが良くてなんとなくかっこよく見えたから。

最初は良く見えたんだけど、先輩のずるさがどんどん見えてきて、しょっちゅう言い争いをするようになった。重要な部分は指導してくれないし、精力的に仕事をする私を邪魔することさえし始めた。

しまいには、私が受注してきた仕事を、この会社は俺が担当するなどとのたまって、仕事を取られたこともある。頭に来た私はそれを社内で言いふらして彼の評価をダダ下げにした。

営業での態度はマイルドな人だったので顧客からは人気があった人だったけど、ずるく数字を稼ぐ方法ばかり実践していて、大事な局面では助けてくれなくて、そのうち先輩のことは嫌になっていった。まあ後にその先輩も転職して、あの当時しょっちゅう遅くまで残業していた仲間はもうほぼあの会社にはいないんだけど。

 

それでも結構縁を大切にする私は、退職後も彼からのお願いがあれば力になったりはしていた。もう10年以上経ち、年に一度くらいやり取りするかしないかになったこの頃。

久々に来たラインが、今私が従事している仕事で上手いことやってルールをすり抜けて、お得に買い物できないか?という相談のラインが来て、人は変わらないものなんだなあと心底痛感した。

もちろんそのラインには、できませんね、残念です。と返事をしておいた。

 

せこいあいつは変わらない。

そしていっときは好きになってしまった黒歴史があるけど、せこいことなんて逆立ちしても出来ない今の夫と結婚して良かったなあとしみじみ思いながらビールを飲む夜。

 

自己学習から得る虚無@ジュリ

子供の幼稚園入園によって2年ぶりに自由な時間を手に入れたのでスペイン語の勉強を始めてみた。COVID-19がなければ、やってみたい習い事は幾つかあったけれど今はあまりアクティブに外出をしたくないので、家の中で出来る暇つぶしを考えた結果辿り着いたのが語学の勉強だった。


海外で暮らしている時にも必要に迫られてスペイン語の勉強を試みたけれど、週に23youtubeで勉強用動画を見るくらいで机に向かっての勉強は全くできなかった。慣れない異国の地で、朝7時に子供が起きてから21時に寝つくまで全ての育児を1人でしながら家事をこなしていた私には、21時からの時間を学習に費やす気力は最早残っていなかったのだ。でも当時の私はそんな自分を努力の足りない怠け者だと感じていて、きっとこの性分は一生変わらないだろうからこの先の人生で学びの時間を持とうと思うことすら烏滸がましいことだと信じていた。


そんなわけでこの4月から自分1人のために使える時間が急に与えられた時、この機会にちゃんとスペイン語を勉強してみようと思ったけれど、きっと続かないだろうなとも思っていた。それでも他にやることもないので始めてみたら、なんだかんだで1ヶ月以上続けることができている。毎日机に向かうのも全く苦ではなく、むしろ楽しい。

今なら分かるが、海外で暮らしていた頃の私は常に緊張していて新しい知識を得ようとする心の余裕がなかった。例えば子供が怪我をした時、日本にいれば119番に電話したり今開いている病院を調べてタクシーを呼んだり、ということが当たり前にできるけど、異国の地ではそれができない。だから常に「子供が怪我をしないようにちゃんと見ておかなきゃ」という緊張感を1日中持ちながら過ごしていた。今は、家族がそばにいてくれて一緒に子育てしてくれるし、子供も幼稚園という新しい世界で楽しく過ごしてくれているから気持ちの余裕ができて、脳の容量が格段に増えた気がしている。


勉強をする上で決めていることは「11分でも良いからやる」「焦らずゆっくりやる」のふたつだけ。テキストも、文法・単語・作文・会話・動詞活用ドリルの中からその日にやりたいものを気分で選ぶようにしている。正しいやり方ではないかもしれないけど、楽しくやれてるからそれでいい。今は毎日大体2時間くらい机に向かってるけど、この先時間が減っても良いと思ってる。時間が減ってもいいから、とにかく毎日勉強を続けて23年後くらいに簡単な意思疎通ができるレベルに成長してできてればいいな、という気持ちでやってる。

今までは「自己学習=可処分時間を有意義に使う方法」と思ってたけど、実際毎日勉強するようになると有意義とは程遠く「なんか今日も勉強しかしてへんな。」という虚無感に襲われるようになることを知った。映画館で映画を観る方がよっぽど充実感を得られる気がする。だから無理に長時間勉強して虚無感に飲み込まれないよう、自分のペースで少しずつ学んでいけたらいいな。


今の一番のモチベーションは、スペインに旅行に行くこと。夫もラテンアメリカスペイン語がどこまで通じるか試してみたいらしい。来年の家族旅行で行けるかな。

幼稚園入園記@ジュリ

本来なら長男は今年の2月からインター幼稚園に入園する予定だったけど、今色んな事情が合わさって実家近くの幼稚園に通園しているので改めて人生って何が起こるか分からないなぁと感じている。

集団生活は2年ぶりなので、幼稚園に慣れるまで苦戦するかと思いきや意外とすんなり馴染んでくれて、数ヶ月単位の長期戦を覚悟していた私は拍子抜けしている。最初の1週間は事あるごとに「幼稚園行きたくない」と言っていたけど、それも徐々になくなっていき登園開始から2週間経った頃には幼稚園に行く生活が当たり前になった。初登園から今まで一度も泣くことはなく、給食もおかわりするほどよく食べているらしい。最近は幼稚園で覚えた歌をよく歌ってくれるようになった。もしかして、長男は4歳の頃の私より大人で賢いんじゃないか?と思ってしまうほど、きちんと幼稚園生活を送っている。すごいな年中。


幼保無償化が始まった時、長男は2歳でまだまだ我が家には関係ないや〜と思っている間に日本を離れることになったのでその存在を忘れたまま年中を迎えたんだけど、恩恵を受け始めた今驚きの気持ちでいっぱいになっている。

0歳の時にお世話になっていた小規模保育施設は収入に関係なく月額45,000円+諸経費で毎月大体5万円くらい払っていて、その後転園した認可外保育施設は月額70,000円くらいの保育料だった。当時はそれを当たり前に払ってたけど、3歳になった途端無償になったり減額されたりするなんて、未だに信じられない。今は幼稚園だから当時に比べると全然利用料は安いけどそれでもやっぱり無償なのは不思議な気持ち。日本ってすごいなーと思いながらありがたく享受している。


幼稚園は、保育園と違って連絡ノートがない分楽だけど毎日子供がどうやって過ごしているのかが見えにくいから不安や寂しさもある。ただそれも子供が成長する過程で必要な寂しさだと思うから慣れるように頑張りたいな。子供と離れた分、自分だけの為に時間を使える様になったから最近は勉強も少し頑張っている。自分の未来の為に時間を使えるのって幸せな気持ちになるんだなー、と再確認できたし子供も楽しく登園して日々成長しているし、この4月から幼稚園生活を始めて良かったなと今心から思う。下調べとか見学とか一人でするの、本当に面倒臭かったけど頑張って良かったよー!

産婦人科卒業②(mm)

お祝いムードの分娩室に小さな赤ちゃんの泣き声が聞こえ、私もホッとしていた。

ようやく終わった…。夫の方を見ると「頑張ったなぁ、よかったよかった」と言ってくれている。後はもうゆっくり身体を休めたい…そう思っていた。

 

しかし、段々とおめでとうムードの分娩室が、おめでとうムードではなくなっていった。

胎盤出すよー」先生がそう言ってお腹をグニャグニャとずっと触られていたのだけど、そのまま30分あまりが経過していた。

胎盤出ないね?」「おかしいね?」「エコー持ってきて」と聞こえ、院長先生の

「あのね、胎盤が子宮にくっついてるわ。これはもう自然には出ません」

「今から僕の手で剥がすから。気持ち悪いよ」という台詞と共に、お腹の中がグニャグニャした。胎盤を人の手で無理矢理剥がすというのは大変な行為らしく、院長先生のメガネに血しぶきがどんどん飛んでいた。

 

癒着胎盤という疾患で、胎盤は子宮と完全に一体化していた。

後から聞くところによると、無痛分娩をしていなかったら子宮摘出に踏み切っていたらしい。無痛分娩をしていたお陰で、痛みなく手で胎盤を剥がしてもらうことができた、良かったと先生は言っていた。

痛みがないから実感が湧かなかったが、2リットル以上出血し、すぐさま輸血することになった。

人間の身体には血は5リットルほどしかないらしく、半分が出血すると死に至るという。

輸血の同意書を書いて!と言われ、サインしながら抗えない眠気がやってきて意識が遠のいていく。眠気なのか意識がなくなったのか分からなくなるような感じだった。全身麻酔を受けるときの感覚に似ていた。

 

輸血の血の型が合わなくて、顔がパンパンに腫れ上がり蕁麻疹が出て、血の種類を替えてもらい、そのまま分娩台の上で結局トータル24時間過ごすことになった。

日曜日の16時前に出産したが、分娩台の上のままもう0時をとっくに過ぎて月曜日になっていた。

 

そのうち麻酔が切れてきて、身体中の痛みに気付き、めちゃくちゃ疲れているのに眠れない、という極限の状態を迎えることになる。

両腕に輸血、抗生剤、痛み止めなどの6本の点滴と、血圧をはかる機械、お股には導尿と子宮からの出血をおさえるためのバルーンと、子宮からでてきた血をためるための管と袋が繋がれている。

お産を含めてももう何十時間も体制を変えていないこともあって、腰がめちゃくちゃ痛い。

 

次の出産の人が来るからと、管だらけのまま別の部屋に移されて深夜になったが、午前3時になっても4時になっても、身体中が痛くて、管だらけで寝返りが打てなくて、眠ることもできない。足にはポンプみたいなものがつけられていて体制は変えられない。

眠剤が欲しいと言ったけど、断られて

こんなに苦しいことってあるかなあ…そもそも赤ちゃんはどこに行ったんだ…?と思いながら2時間ほどウトウトしたら朝が来て朝食で起こされた。

 

何も食べられないままお昼を迎えたが、ようやく管を外してもらえて普通に横になることができた。

その日少しだけ、赤ちゃんが部屋に来て、母乳をあげるように言われ、朦朧としながら母乳をあげて、夜を迎えた。

結局、退院するまで体は極限に疲れているのに脳が興奮していて睡眠薬なしでは眠れない日が毎日続いた。

今思い返すとこの時点で母乳をやめて、ミルク育児をしていれば体調もいくらかマシだったと思う。だけど病院の方針でとにかく母乳をあげるように言われて、母乳を何度も何度もあげ続けた。極度の貧血になっていて、毎日点滴と鉄材の処方をしながら母乳をあげるのはどう考えても苦しすぎると今でも思う。ゆっくり寝たいのに、毎朝点滴のために起こされるのが辛かった記憶がある。

 

通常4日の入院予定が9日間まで伸び、コロナで誰とも面会を許されない中、赤ちゃんと同室の日々が始まった。赤ちゃんが泣いて母乳をあげて、ミルクもあげて、少し眠って、を繰り返して昼夜なく時間が経っていった。

赤ちゃんは小さくて可愛かったけれど、とてもじゃないが可愛いという感情が湧く余裕はなく、しんどくて、休みたくて、でも眠れなくてただただフラフラだった。出産は交通事故なみというが、本当に交通事故ばりの出血をしたのでそれはそれはなかなか回復しなかった。

 

退院の日を迎えて、家族が迎えに来てくれた。

実家で3週間ほど育児をしたが、とにかく体調がもどらない、出血し続け、夜は起き続ける。

今、赤ちゃんが夜通し寝てくれて、その日々が1ヶ月続いた頃に体調の回復をようやく感じた。それまでは、赤ちゃんが夜通し寝てくれてもお昼間も一緒に寝ないと身体がもたなかった。

母親が赤ちゃんを見て「可愛いなあ、可愛いなあ」と何度も言ったが、私には子を可愛いを感じられる心の余裕がないまま日々が過ぎていった。

 

友達が遊びに来てくれたりして、生後2ヶ月の頃もまだ余裕はなかった。友達の赤ちゃんが泣いたりすると、それを受け入れる心の余裕もなかった。近くのスーパーまで出かけて帰ってくると、言いようのない疲れが全身を襲ってきて、その後は倒れてしまい何もできなくなったりしていた。

 

とにかく休みたくて、寝たくて、(でも寂しいから友達とは会っていて、しんどいけど友達と会うことで気が紛れたいた)以前の投稿の母乳アクシデントなども一通り経験し、赤ちゃんが生後3ヶ月を迎えた今、ようやく正常な状態に近づきつつあり、赤ちゃんがとても可愛いと思えている。

 

赤ちゃんを抱っこしたり、授乳したりで、左腕の痺れがとれないとか、腰が痛いとかの外科的な痛みはあるが、産後謎に続いた涙が止まらないなどのメンタルの変化も一通り終わったように思う。

そして、胎盤はしばらくお腹の中に遺残していてまだ病院に通ってはいるが、もうほぼ全快してきている。出血も3ヶ月間続いたが、それも終わった。

 

今日、最後の母親健診に行き、やっと私の出産が終わったと感じられた。

これでお母さんの健診は終わりです、と言われて、久々の産院に行ったのもあって、陣痛の開始からの日々を思い返した今日。

これを書きながら、娘は今スヤスヤと眠っている。想像以上に壮絶な出産となったけれど、可愛い子が産まれてきてくれてやっぱり良かったなあと思う。

そして様々な大変さがあったとは言え命を助けてもらえて、ありがたいと思い感謝している。

今日で産婦人科卒業。

産婦人科卒業①(mm)

今日をもって1年間通った産婦人科を卒業したので、お祝いに黒ビールと赤ワイン(何という飲み合わせ)を飲みながらこの記事を書いている。

 

今日、最後の私の産後健診を受けて、たくさんの看護師さんが「ご体調どうですか?大丈夫ですか?」と心配してくれて、「もう本当に大丈夫になりました。ありがとうございました。」とようやくハッキリと言えるくらい身体が元気になってきた。

帰り道に娘を抱きながらホロリと涙がこぼれた。長かったし、本当にきつかったなあ。

3ヶ月になった娘は待合室で新生児に囲まれて、泣くこともなくおとなしくしていた。かわいくてギュっと抱きしめながら帰った。

 

妊娠時から体調が安定せず不正出血を繰り返していた私は、妊娠中に入院こそならなかったけれど、その不正出血が後に起こることの布石ではあった。

 

コロナで陣痛の立ち会いも許されない中、私の陣痛は36時間続き、痛みの強さよりも絶え間ない痛みの波の長さに耐え切れなかった。

金曜日の深夜に陣痛が始まり、土曜日の早朝に入院。

無痛分娩を希望していたものの、子宮口が規定の大きさまで開くのに時間がかかり、無痛分娩の処置をしてもらえたのは陣痛が開始してから丸1日後だった。

 

痛みの間は、看護師さんがお風呂にお湯をはってくれたり、バランスボールを持ってきてくれたりと様々な形で痛みをのがせるように協力してはくれたけどどれも意味をなさないどころか、痛いし、長いし、眠いし、眠れないし、陣痛と陣痛の合間の2分間や3分間で寝落ちしては痛みで起こされていた。

そのうち看護師さんが勤務交代し、夜の看護師さんはめちゃくちゃ意地悪で、陣痛は痛くて当たり前、という考え方の人で朝の看護師さんのようにお風呂やボールの提案もなくただ部屋に放置されるのみであった。

もう耐えきれないと思い、看護師さんを呼び、子宮口の確認をしてもらうが「まだ麻酔はダメ」の一点張り。でもそれってあなたの判断でドクター判断じゃないよね?と思った私はしつこく看護師さんを召喚し、ようやく無痛分娩麻酔の許可をもらった時には、時計の針が0時を迎えようとしていた。

 

無痛分娩の麻酔を打ってもらうために、この深夜に麻酔専門の医師を家から呼ぶらしい。

私は彼が1分でも早く到着がしますようにと心から祈りながら陣痛に耐えていた。痛い、眠い、痛い、眠い、のコンボにもう耐えられないと心底思っていた頃、麻酔科医が到着し、背中に麻酔を打ってくれた。無痛分娩の処置は10万円だったが、私は100万円払ってもいいと思えるぐらい価値を感じた。家族が応援してくれているのは分かっていたけど、痛みと眠気でスマホは開けず、文字通り神様に祈り続けるだけの24時間だった。

 

 

分娩台の上で麻酔を打ってもらい、嘘のように痛みがなくなり、夫と実母が非常に心配してくれているラインを確認し返信したら、すぐにそのまま分娩台の上で眠った。前日の晩から陣痛でほとんど寝ていなかったので倒れるように寝た。分娩台は固いので寝心地は全然良くないが、吸い込まれるようにして寝た。麻酔の影響で子宮口の開きは遅くなるらしいけれど、早朝に目覚めるとちゃんと子宮口は開き始めていた。

 

安心感のある看護師長らしき女性が「お昼には産めるね!」と言ってくれて、いきむ練習を何度も何度もしたがなかなか進まなかった。

この頃になると無痛分娩だけど痛みがないわけではなく、陣痛の波が来ると痛みと共におしりが爆発しそうな感覚になる。誰かにおしりをおさえてもらわないと我慢できないくらい圧迫される。でも痛みのレベルは我慢できるレベル。

いよいよ15時を超え、一体何時間お産にかかるんだ…と思っていた頃、「頭が見えてきたよ!」と言われ、この時だけは夫も立ち会うことが許可された。

無痛分娩をしていても苦しくて身体中汗だくになっていきみ続け、いよいよ頭が出そうになってきた頃に男性医師と男性看護師の2人が私のお腹の上に馬乗りになり「せーの!に合わせて息を吐き出して!」と言われ「せーの!!!」で、苦しすぎてマジで身体が爆発するー!!!!!!!と思った時、ニュルリ、とした感覚で娘が産まれた。不思議な感覚だった。

 

「おめでとうございます!」と言われ、娘を胸の上に置かれて、よくわからない気持ちのまま頭を撫でた。

産まれたのは日曜日の午後だった。金曜日から長かった…と思いながら、夫が赤ちゃんを抱いているのを見ていた。

 

入院開始から36時間が経過していた。

でも本当に大変なのはここからだった。

(続く)

 

 

新生活始めました@ジュリ

日本でCOVID-19の感染者数がどどーんと増えている昨今。我が家は家族4人中3人が重症化のリスク高めの人員構成なので、各々が命の危険をほんのり感じながら息を潜めて暮らしている。ここ2ヶ月は基本的に家から出ず外出する時もタクシー移動の生活だったので筋肉が削げに削げて5kgも痩せてしまった。不健康になると、太れる体を持っていた過去の自分が眩しく見える。

そんな凪のような老後のような生活を送っているけど、幸い閉塞感などは感じずに穏やかな気持ちで過ごせている。恐らく、昨年日本に帰ってきてから食べたいものを食べて、旅行をして会いたかった人達とも飲みに行って充分日本を満喫したからなんだと思う。あとは近所で銃撃戦が起きる心配をしなくてもいい、という安心感も大きい。COVID-19の感染者数も日本は桁違いに少ないから、日々抱く緊張感は駐在地で過ごす時と比べ物にならないくらい。


日本に帰ってきてからは、携帯電話の機種変更・キャリア変更をしたり子供の幼稚園を決めたりやるべき事を少しずつ進めている。

携帯電話は数年前から格安キャリアに変えたかったのだけど、海外転居を控えていたので変えられず今年に入ってやっと手続きできたから達成感が半端なかった!MNPでポイントもたくさんもらえた!しかもそんなにデータも使わないので、今のところ毎月利用料金が0円なことに震えるほど感動している。

ただ格安キャリアには電話番号保管サービスがなく、且つ駐在国では使えないので日本を離れる前にまたMNPで大手キャリアに乗り換えかなあかんのが面倒くさいけどそれを差し引いても満足度の高い出来事だったな…。前の機種は5年半使ってたから、写真を撮るたびカメラの画質の違いに驚いてる。


何事もなければ4月に入園式がある筈なので、新しい携帯電話の良い画質のカメラで子供の晴れ姿を収められればいいな。どうか感染爆発で入園式が中止、なんてことになりませんように!

母乳警察よ、滅びろ(mm)

臨月から出産を迎えた途端に忙しくて更新できていなかったけど、色々あって結果的に難産だったが何とか赤子は元気に産まれて育ってくれている。

出産のことは書き出すと長いのでそれはまた後日にして、今日は授乳にまつわることを。

 

結果的におっぱいが張らない体質だった私。

助産院に行くと母乳は結構出ているけど、赤ちゃんに飲む気がないという相性の悪いパターンで、ミルク過多の育児を続けて2ヶ月。

 

母乳は20分あげても10-20ミリくらいのこともあり、ミルクで補完していた先日の朝。

起床すると脇と胸に痛みがあり、おかしいなと思うと1時間でものすごい悪寒と40度の高熱になり立てないくらいのつらさに。コロナを疑いつつも念のため、家にあった抗原検査キットで陰性を確認した後、朦朧としながら赤子を抱えて助産院に行くと立派な乳腺炎だった。

 

飲まれないけど日々つくられる母乳がたまり、細菌感染して高熱になったそう。

おっぱいをマッサージしてもらい、そのあと病院で点滴をして何とか解熱した。

 

問題はその翌日からで、炎症をおこした方のおっぱいを赤ちゃんが全く飲まなくなった。

大泣きしておっぱいを嫌がる赤ちゃんの姿を見ると、何となく私の心も傷ついた。

炎症を起こしていない方は飲むけど、そちらを飲まれると炎症を起こしている方も母乳が分泌されてしまう。でも放っておいても母乳は分泌されるので、困り果てていたのが日曜日。

搾乳機を使うとおっぱいは更に腫れ上がり、痛くてとてもじゃないけど搾乳できない。

おっぱいは真っ赤になって、熱を持っていて痛い。また熱が出たらどうしよう。家族は全員仕事で頼れる人はいない。

いつもお世話になっている助産院はお休みで、行ったことのない助産院に電話をして駆け込んだ。

 

事情を説明したところ、

「あーそれはミルクで楽したからだね」

「夜に8時間も寝るの??3時間ごとに起こしてるおっぱいあげないからだよ!これからは起こして!」

いや、ネントレして夜は気持ちよく寝てるのに何故起こないといけないの?!

「ミルクばっかりでデブでしょ?」

普通に成長曲線の真ん中ですけど…

「おっぱいの拒否なんて気のせい。ちゃんとあげたら飲むから。」

本気で拒否してます。左パイは飲むし。

「とりあえずミルクやめないと。人工乳なんていいわけないでしょ」

いつの時代の話?

 

と、しばきたくなるババアだったけど、とにかく今はおっぱいを楽にしてもらわないとまた高熱が出るかもしれないし、日曜日あいている助産院はここしかないから反抗しづらい。

心に怒りを溜めたまま、タクシーに乗り込み帰宅したけど許せない。そして、帰宅後も赤子はおっぱいを飲まなかったから、普通にミルクをあげた。

 

おっぱい警察はそこら中にいた。

手始めに私の母親。実家にいた時は、オムツを見るたびに「あーこのウンチ!!母乳飲んでるときのウンチだね!!」

「おっぱい飲ませてるのに、ミルクも飲ませるのって何で??」「母乳飲んでる姿っていいわね〜」とミルク否定というより、母乳大歓迎という姿勢で、母乳の方が当然良いよねという雰囲気を醸し出してきた。

 

義母に至っては、私が出産で大出血し輸血までした事を知っていながらも、一言もそれに関する心配の言葉や体調を気遣う言葉もなく、会う度に発する言葉とメールが「母乳どうですか?」しかないので、この人は母乳宗教に入信して頭がおかしくなったのかな?と思った。

私の身体は産後も回復せず、出血が悪化して産院から大学病院に搬送された後に会った時も、一言も私の身体を気遣う事はなく、赤ちゃんを抱っこして勝手に親戚中をたらい回しにさせたので、もう赤ちゃんは会わせたくないと思っている。

 

ミルクで元気に育ってるよ!そんなのどっちだっていいじゃん、お母さんが元気じゃないと!と言ってくれるのは同年代の友人と夫しかいなかった。

 

今の私は赤ちゃんも私も笑顔でいられるように、完ミに移行したいけど、またその最中に乳腺炎などになった時に相談できる先がなくて困っている。

どこの助産院も母乳ばかり推奨してきて、ミルクの話を聞いてくれない。元々通っている助産院は普段のミルク否定まではしないけど、ミルクに移行したい旨を伝えたら「そんなことしたら、何十年先に身体がダメになる!」と言われ全く相談には乗ってくれなかった。

 

また乳腺炎になって高熱が出たら?

私の環境は家族が忙しくて、赤ちゃんを他に見てくれる人はいない。私の体力を確保するために死ぬ気でネントレして夜も寝てくれるようになったのにそれを起こせと?

私が倒れたら終わりなのに、助産院は協力してくれない。

母乳が赤ちゃんに良い事など人に言われなくても百も承知している。私だってトラブルがなければ母乳をあげていたと思う。母乳で苦しむ人にも母乳を押し付けるその神経が理解できない。

母乳を推奨することではなく、お母さんを助けるのが助産院の人々の仕事だと思うのに、令和の時代も世の中は母乳警察で溢れている。