わっさわさ

セカンドシーズン

14w1d(MM)

2021年の2月に、6回目の胚盤胞移植で妊娠して4ヶ月になる。

私は呑気なところがあって、3回目の胚盤胞移植くらいまでは精神的にはボンヤリのんびりしていて、不妊治療クリニックで赤ちゃんを連れてくるのは御法度と言われているけど、そんな状況でも赤ちゃんを見ても可愛いなあとしか感じていなかった。

今思い返すと当時の私の年齢では、2-3回の移植で成功する人の率が高くて、私も漠然とそれくらいでは成功するだろうと鷹を括っていたからだと思う。

 

4回目の胚盤胞移植の時にうまくいかなくて、その時の医師に何かを質問した際に「言ってる意味がわかりません」と冷徹に突き放された時、突然涙が溢れ出して、自分で知らなかった場所にこれまでの治療への痛みと悲しみが蓄積されていたことに気づいて、驚いた。

 

結局、前述の病院からは転院し、(合計4回転院した)私は徹底的に診てくれる医師を選ぶことにした。

希望の先生を選べない日もあって、この先生は苦手だなと思う時もあったけど、治療方針を立てる重要な日は絶対にこの先生、と決めて通うことにした。

その先生はその病院の理事長で、戦略も素晴らしかったと思うけど、うまくいかなかった時に頭を抱えて一緒に考えてくれた上にめちゃくちゃ優しかったので、なんかそれだけですごく救われた。

最初に治療の約1年半を費やした病院は、思い返すと戦略も何もないところだったので、振り返るたびに温厚な夫でさえ「潰れるべき病院」と言っていた。ぱっと見すごく妊娠率を高く公表している病院で盲信してしまった自分が悔しかったのでGoogleレビューに酷評したら、同じような人がたくさんいて、日本の不妊治療の闇を感じた。

 

良好胚盤胞と言われる胚盤胞でもうまくいかなくて、精神は削られていく一方だった。

何がいけないのか?なぜ他の病院は必要と思われる検査を先に進めなかったのか、不審な思いとどんどん経過する時間に焦りを感じた。

 

判定日に祈るような思いで診察室のドアを叩くときも、採卵が怖くて青くなりながら待合室で俯いていたときも、麻酔薬が合わなくて電車の中で嘔吐しながら帰宅した時も、自己注射の量を間違えてパニックになった時も、卵の培養結果を聞きに行くのが怖かったときも、病院が遠くて採卵に間に合わないから前泊したときも、あらゆるシーンで夫が常に自分事として捉えて、一緒に来てくれたことはこの3年間の辛い治療の中で救いだったとおもえる。

 

妊娠するまで、約3年間ありとあらゆる検査、採卵、移植を繰り返し、6回目で成功してからは祈るような思いで今日まで過ごしてきた。

まだ安定期にも入っていないので安心はできないけど、不妊治療中に使用していた薬の余りがまだ捨てられなくて、薬を見るたびに、もう戻りたくないという思いでいっぱいになる。

14週でお腹は少しぽっこりしてきた。

どうか無事に産まれてきてくれることを、あと半年祈りつづけるしかない。